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残響② 記憶のかけら 中 【鬼滅の刃】【二次創作】

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#31 残響 2 記憶のかけら 中 (愈史郎×善逸) | 鬼滅の刃 - sungen(さんげん)の小説シ - pixiv

【概要】鬼滅の刃・過狩り狩り 二次創作 長編

カップリング】メイン:愈史郎×善逸 (R18あり)、ぜんねず、ゆしたま

 

残響② 記憶のかけら 中

『我妻善逸』の初めての奉公先は、染め物屋だった。
立派な屋敷に、善逸は目を丸くした。塀が続いている。後で色々奉公したが、その中でもだいぶ上の方と言える、立派な門構えだった。

「ここが、四嶋様のお家だ」
しじまさま。
善逸は呆然とした。生け垣があって、門の幅は大人が両手を広げたくらい。瓦屋根がついていて、戸板が閉まっている。

「すごいな……ここでいいのか?――すみません」
男は勝手口をドンドンと叩いて、門番を呼んだ。
中からひょろりとした男が出て来た。藍色の作務衣を着て、刈り込んだ髪に、はちまきを巻いている。
「ああ、やっと来たか。いらっしゃい、ええと、奉公でいいんだよな。その子か?」
「ああ。これが珠世という女医から預かった手紙だ。あとは頼む」
男は手紙を二通渡した。ついて来ないらしい。

「あっ……、ありがと」
訳の分からぬまま、善逸は屋敷の門をくぐった。

「大奥様、例の子が来ました」

「ああ、やっときた」
大奥様と呼ばれた女性が返事をした。
水色の着物に淡い黄色の帯。白髪をまとめた六十から、七十歳くらいの老女だった。
年の割に、背筋は伸びて溌剌とした印象だった。

ざり、ざり、ざり。
「……何の音?」
善逸は辺りを見回した。
「ああ、向こうで釜上げをしているんです。遠い所、良く来ましたね……、思ったより……?坊や、お年はいくつ?」
音は老女から聞こえる。
「……年?」
「大奥様は、年齢を聞いているんだよ。いくつだい?」
男が尋ねた。
「……??」
善逸は瞬きをした。
「まさか、わからないのか?」
男が言った。
「どうします?」
男が大奥様を見た。
「……ひとまず染吉(そめきち)に会わせましょう。駄目なら断ればいいし……どうだかね……思ったより小さいし」
大奥様、は歩き出した。
男が、善逸に大奥様の後に付いていくんだよ、と言った。

善逸は小走りで後を追った。よく分からないが、仕事というのは言われたことをすること、らしい。善逸はここに仕事をしに来たのだ。それが精一杯の理解だった。
「としっていうのはなに……?」
善逸は呟いた。
「そんな事もしらないのですか?まあ、呆れた……、生まれてから何回、年を重ねたか、それだけの事ですよ」
ざりざり、という音に、少し軽い音が混ざる。
善逸は首を傾げる。人が嬉しい時に立てる音?なのにとても変わっている。少し怖いと思った。

「こちらです。染吉、連れて来ましたよ」
「ああ、やっと来たか」

縁側に出て来たのは、やや細身で中背の男だった。鈍色で立て縞模様の、とても高そうな着物を着ている。黒い髪が長くて、後ろで縛っている。
善逸は髪を結んだ男を初めて見た。顔立ちも悪く無い。やさしげな……。

「おばあ様もそこに座って下さい」
「はいはい。それにしてもこの子、少し若くないかね」
「君も座って」
十畳ほどの畳の部屋に、開いた仏壇があって、染吉はそれを背に座っている。
善逸は仏壇を初めて見たのでびっくりした。仏壇の左隣は床の間。右は神棚、大きな金庫。
どれも善逸には、何なのかさっぱり分からない。
大奥様は染吉の左に腰を下ろした。

「どうぞ、その座布団に座って」
善逸が目を丸くしているので、染吉が言った。柔らかい笑みだった。
座布団、これかな。善逸は染吉と同じように、足を曲げて座った。

「これが珠世様からの手紙で……、こっちは?」

「我妻善逸?」
「何でしょうね。書いてあるかな」

染吉がざっと手紙を読む間、善逸はどうしたらいいのか分からず困っていた。
先程名前を言われたのだが。どうすれば良いんだろう。
何か言った方がいいのだろうか。

善逸は、あいさつ、というのを、おやすみなさい、いただきます、ありがとうございます、しか知らない。どの挨拶も当てはまらない。食事はないし、寝る事も無い。ありがとうございます、というのも多分違う。

「――なるほど……まあ……概ね、聞いた通りか、でも思ったより若い、どうしようかな」
「この子に子守ができますかね……?」
「珠世さんの紹介だし、断るのも……話してみます」

「初めまして、ええと、君は善逸さんでいいですか?俺は染吉と言います。ここの家の当主、主人、つまり一番偉い人です。分かるかな」
「……はい」
善逸は頷いた。つまり妓楼の一番偉い人、みたいな人だと思った。

「ぼくは我妻善逸です」
善逸は言った。とりあえず名乗れと送ってくれた男に言われていた。
「良い名前だね。君は牛込にいたと言うけど、どういう風だった?どうやって生活してた?親がいないというのは書いてあるけど」

「……どういう……、病気をして、珠世様に助けてもらって……、ここに来ました」
「そうか、なるほど。病気は何だった?」
「はいえん、ひだりかたのこっせつ、ぜんしんだぼく、れっしょう、みぎかただっきゅう……」
善逸は聞いたままを言った。
染吉は善逸を見た。
「ずいぶんだね、もう良いの?」
「折れたひだりうでがまだ治ってないから、あと、十日は使うなって、愈史郎さんが……。でも珠世様はもうほとんどいい、って」
「なるほど。分かった。君は幾つ?年は?」
「この子、自分の年を知らないみたいですよ」
大奥様が言った。

「としって、かぞえておいわいするやつ?」
善逸は呟いた。
「そうだよ、それだ。幾つお祝いした?」
善逸は指を折った。
「……十?たくさん」
お祝いを聞いた数を言った。
「??十には見えないな。たぶん五つくらいだと思うけど……」
「それでいいんじゃないですか」
大奥様が言った。
「じゃあ、君は今日から五つ、五才だ。年を尋ねられたらそう答えるように」
「うん」

「返事は、はい、ですよ」
大奥様が言った。
「はいで?」
善逸は繰り返した。
「はい」
大奥様が言った。
「はい」
善逸は頷いた。

「うーん。おばあさま、まあ、もう、この子でいいんじゃないかな。手も足りないし……五つだし、多分何も知らないだろうから、教えないといけないけど」
「まあ、染吉さんがそう言うなら……」

「……あれ?でも君、もしかして……」
そこで染吉が眉を潜めた。
「?」
「いや、さすがにそのくらいは出来るか。君、数を数えられる?文字は書けるかな?」
「かずは十まで。文字は……できない」
善逸は答えた。お風呂に入って数を数える。十まで。それなら出来る。
「そうか。まあ、じゃあ、それも教えようか……。うん、分かった。よろしく善逸。五助を呼んでくれるかな。彼に任せよう」

――現れたのは山のように大きい男だった。
「五助という」「わぁあああっ!?」
善逸は見るなり飛び上がって、走ってふすまにぶつかった。

「こら!」
大奥様が叫んだ。
「ああ、ふすまが……五助は怖いから」
染吉が言った。

「こいつですね。新しい奴は。で、何からやらせます?」
「とりあえず屋敷を案内させて、孤児だし、もしかしたら、粗相するかもしれないから厠から」
染吉が言った。
「分かりました」
善逸は首根っこを掴まれ担がれた。その日は一通り、屋敷の仕組みをとにかく言われた。

この屋敷は染め物をしていること。仕事場には勝手に入ってはいけないこと。屋敷で入って良い場所、いけない場所。寝る場所、厠のやり方。風呂は毎日入る事――これは仕事で染料が付くからだ――。
お前の役目はまずは下働き、とにかく俺の言う事を全部やれ。他にも誰かに何か言われたらすぐやること。
洗濯、炊事は珍汰と三郎に聞け。他にも奉公人がいる。仲良くしろ喧嘩はするな。

「分かったか?」
「……ひっ!?はい」
善逸は泣きながら言った。先程厠の使い方を教わって、大泣きした。五助が手本と言って実際にやって見せてくれたのだが、物が大きすぎて衝撃を受けた。
むしろ厠に関しては、愈史郎に教わっていたので分かっていたのだが。

「分からない事があったら聞け」
――この五助というのは、見た目は怖いが音はまあまあ良かった。
ただ、ちょっと五月蠅い。
「ごすけさん?どういう字?」
「……ご、に、すけだ」
「??」
五助は善逸の手の平に書いた。
こういう字らしい。
「わかった。子守はいつすればいいの?」
善逸は尋ねた。
さっき、染吉と大奥様が話していた。善逸にはまずは雑用と子守だけを任せようと。

「ん?聞いていたのか。それはまだ先だ。旦那様か大奥様が言うだろう。まずは慣れろ。二日もあれば慣れる。今から手伝いをしろ」
善逸は言われるがままに動いた。

左手がつかえないと言うと、全部右でやれと言われた。

■ ■ ■

善逸は十日過ごした。右手だけで何も上手く出来なかった。
愈史郎に使うな、と言われたので使わずに頑張ったが、それで出来る訳も無い。
五助、職人、女中、丁稚、とにかく何回も怒られた。

「朝だよ!!起きろ!」
威勢の良い女の声がする。
お鈴という名前の女中で、奉公人を纏めているらしい。
年は二十と少しくらい。顔立ちは整っている。
他の女中と同じく、えび茶の着物に黒い帯。髪はまとめて結って、玉の無い飴色のかんざしを挿している。

誰かが今は人が少ないと言っていた。余裕がある訳でも無い、という話を聞いた。
新しい子が使えればいいんだけど、あの子、手が悪いのかい?と言われた。
ああ、なんか怪我らしいけど。という声も聞こえた。

子供は善逸を入れて五名。仕事場の隣にある六畳の部屋に纏められていた。
全員、男子で、一番上が十二歳。十才、九才、九才。そして善逸が五才。
先にいた四人は同時期に入って、どうやらゆくゆく、職人になるつもりらしい。
ここはそういう子供しか受け入れていないという。手職があれば食うに困らない、と一人が言っていた。
ここはかなり良いと職人さん達が言っている、とも言っていた。
仕事柄、風呂に毎日入れるのが最高らしい。これは滅多に無いことだ。と言っていた。
旦那様は優しく良い方だと、皆が口をそろえて言っていた。職人の数は多い。時期によるが通いも含め四十人以上いるらしい。

善逸は一番最後に起きた。とにかく朝が早い。
「こら!!新入り、善、さっさと支度しな!」
「ひゃい!!」
善逸は慌てて着替えた。

「今日から子守もするから、ついて来い」
お鈴は端的にしか言わない。
「え、はい」
まだ飯を食べていない。
「いいかい、大奥様に何を言われても、頷くんだ。いいかい、分かったかい?」
お鈴が少し心配そうに言うので、善逸は不安になった。

「何を言われるの?」
「なにを言われるんですか、だ!阿呆」
お鈴に睨まれた。
「ヒッっな、なにを……言われるんですか?」
「……この屋敷には、坊ちゃん、つまり旦那様の子供がいらっしゃるんだが、少し事情があって、表には出られない。大奥様と、奥様が色々お前に教えて下さるから、お前はでしゃばらず、……とにかく、何を言われても頷くように」

善逸はああ、と思った。
「おめかけさんの子供がいるから、だいじょうぶな子?」

善逸が言うと、お鈴が一瞬動きを止めた。

「――。誰が言ってた……の。言いなさい」
お鈴の声は小さかった。
「えっ。昨日の夜、お鈴さんが……」

お鈴の目を見て、音を聞いて。善逸はぞっとした。

「…………。どこで聞いたか知らないけど、二度と嘘は言わないように。言ったら、折檻される」
「……せっかん?」
「殴られる。蹴られる。私が言ってたなんて、嘘はつかないように。追い出されるよ。……。絶対、言ったら駄目だからね。大奥様も、さすがに、五つの子供相手にそんな事はしないと思うけど。それで体こわして、出て行った子がいるから。痛い目見たく無かったら、言う事を聞くように。だれも庇っちゃくれないから」

善逸は手を引かれ、屋敷の奥へと入って行った。

■ ■ ■

その子供は十ほどになるようだ。女性の横に立っている。
善逸は、子供を見てはっと息を呑んだ。

――音が、おかしい。
所々、抜けているというか……。

「善逸には、染助(そめすけ)のお友達になって欲しくて」
大奥様が言った。
『奥様』は桃色の着物を着た綺麗な人だった。髪も丁寧に結ってある。指も手首も細い。

「桜さん、この子、善逸さんと言うんですけどね。孤児で手習いもした事が無いそうですよ。なので、染助と一緒に教えましょう」
ざりざりざりと、心臓に砂が混じったような音がする。

「善逸さんにもお仕事がありますから、毎日、この時間から一刻にしましょうか?ねえ、桜さん」
「はい、大奥様」
奥様が平坦な声で答えた。かたかたと震えている。

「では。教えましょうね、善逸さん、そこに座って下さい。そこが貴方の場所です」
「……はい」
善逸は大人しく座った。意味が分からなかったが座る。
「染助さん、座って下さい」

善逸は、え?と思った。
染助は動けるのだろうか。

「……染助、座って、ね、そこよ、できるでしょう?」
奥様が涙声で、再三促して、やっと染助は座った。
「まあ、ゆっくりね」
大奥様が吐き捨てた。

善逸はかっと、体が熱くなった。よく分からないが、手の平を握っていた。
体が震えていた。涙があふれてしまった。

「まあ善逸さん、どうしたの」
大奥様が言った。
「……っ、うぁああぁああっ!」
近づいてくる音が怖くて、善逸はふすまを開け逃げ出した。

■ ■ ■

屋敷の隅で隠れて泣いていたら、五助がやってきた。

「おい、坊主。大奥様がお呼びだ」
善逸は耳を塞いだ。あんな恐ろしい汚い音、聞きたくない。善逸を殴った男達の方がまだましだ。善逸を化け物と言った人達の方が、まだ綺麗だった。

いちばん悲しかったのは、染助が分かっていた事だった。
分かっていても、動けないのだ。染助は。
もちろんぼんやりとしているのだけど。奥様を気遣っている。

「ひっぐ、……ひっく……ひっく、うぇええうわぁあああん、うぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああん!!」
善逸は泣きじゃくった。

そうしたら、善逸は五助に叩かれた。
「五月蠅い。泣いても変わらんぞ」
善逸は地面にべしゃっと倒れた。耳がきいん、となった。頭が揺れて、しばらく音が途切れた。

「ちょっ、おい、馬鹿、殴るなよ!」
五助と善逸を探していたらしい職人の一人が見つけ、善逸を起こした。
「……」
五助は舌打ちをした。

「孤児のくせに、とんでもない馬鹿だなコイツは」
五助が言った。
「お前な、……、とにかく、旦那様に取りなして貰おう。さすがにやりすぎだ。殴ることはないだろう。おい、大丈夫か?」
善逸はただ泣いていた。

■ ■ ■

「善逸、おばあさまと喧嘩したそうだね」
染吉が言った。

善逸は座布団無しで正座をしていて、俯いていた。
「……ひっぐ……うぇえ」
涙が止まらないのでずっと泣いている。鼻水が垂れて息が出来ないので口で息をしていた。擦りすぎた目は腫れていた。

「おばあさまと喧嘩か、少し違う気もするが……」
染吉はいらいらと腕を組んでいた。

「仕方無い。善逸、一日、染助と手習いをしたら、このおまんじゅうを一つあげよう」
染吉が、床の間に備えてあった饅頭を取って言った。

善逸は首を振った。
善逸は饅頭という物を食べたことがなかった。でもきっと良い物では無い。

「……確かに……。はぁ。善逸、こう考えてほしい。おばあ様はもう、仕方無い。善逸が我慢すれば、桜は少し楽になる。善逸は手習いができる。勉強だってさせてもらえる。それに善逸だって、ここに居たいだろう。それとも居たくないのかな」

「……」
善逸には答える事が出来なかった。どこにいても一緒だと思う。でも、ここを出たら、珠世がが悲しむかもしれない。
「ここに居たければ、居ればいいけど、桜の為にも子守はしてほしい。ほら、分かるだろう、……はぁ。全く……、桜にも困ったな。謝れば済むことなのに。おばあさまは、善逸が気に入ったと言っているよ。良い子だって。……はぁ……」

「……」
善逸は言われた事の半分も分からなかった。
いて良いのか悪いのか、何をすればいいのか、どうすれば良いのか。
この人はなにもしないの?そんな疑問が浮かんだ。
「旦那様はなにもしない?」
善逸は言った。
「?どういう意味かな」
「……えっ……、わからない」
善逸は言った。本当によく分からなかった。上手く言うことが出来なかったのかもしれない。色々話をする大人はもっと沢山喋った。

「とりあえず、今日はこれを持っていってお休み。そうだ、見つからないように今食べた方がいいな、美味しいよ。ほら、食べてごらん」
染吉が饅頭の包みを開いて渡した。
「……」
そういえば朝から何も食べていない。お饅頭があると言われると皆声を上げて喜んでいた。
善逸は饅頭を食べてみた。

「……!」
それは今まで食べたことのないくらい、甘くて美味しい物だった。
善逸は夢中で口に入れた。
「美味しい!」
善逸は目を輝かせて言った。染吉はそうかい、良かったと。顔は微笑んでいるのだが。音は冷たく乾いている。なんの音かなと善逸は考えた。

「また食べたいかな」
「うん」
善逸は返事をした。もちろん食べたいに決まっている。
「なら手習いを頑張るといい、そうしたらもっと美味しいご飯も食べられる。君のためだ。まあ、うん……、おばあさまに逆らったらいけないよ、折檻されるからね」
染吉が言った。

「さ、もうお帰り。午後の仕事があるだろう。明日の事はお鈴に頼んでおくから」
善逸は背中を押されて、部屋を出た。

――翌朝、善逸はお鈴に呼ばれた。どうやらまた手習いをするらしい。

善逸は「お鈴さんに頼んでおく」というのは、お鈴さんが上手くやってくれると言うことだろうと思ったが、そういう事ではなかったらしい。
お鈴さんは部屋の前まで善逸を抱えて運んだ。今日は泣かないようにと言って。

「大奥様、善逸を連れて参りました」
お鈴が言って、どうぞ、と声がした。

「いらっしゃい、善逸さん」
「……」
善逸は黙ったまま部屋に入った。今日は染助が座っていたのでほっとした。
奥様も顔色がいい。
「手習いをしますね。まずは炭の磨り方から」
教え方は丁寧だった。分かりやすく教えて貰えた。

「……善逸さん、良く書けましたね」
褒められたが……『の』という字を、手本を真似して書いただけだ。誰だって出来――ないのか。
「染助さん、できませんか?」
「……」
染助は動かない。でも少し表情が変わった。

善逸は大奥様をにらんだ。仕方無い人という言葉が思い出される。

「はぁ」
善逸は溜息を付いた。もうなんでもいいから、とりあえず終われば良いと思った。
字というのは書きにくい。筆というのは持ちにくい。細かくてとても一度では覚えられない。

「次は、ほ、と書いてみて下さい。書き順という物があるので、私がやるとおりに」
「ほ……」
善逸には難しくて上手く書けない。向かい合っているのでその通りに真似するのだが……。
「善逸さん、逆ですね」
「ぎゃく?」
「ええ」
大奥様に言われたとおりに書いたのだが、逆。つまり逆。

「どうやって書くの?」
善逸は染助に尋ねた。
染助は、特に反応しなかったが、とくん、と音がした。
「難しいよね」
善逸は微笑んだ。
「喋らないように」
「……逆……、逆って……」
善逸は今までにないくらい頑張って、逆に書いてみた。上手く行かない。その手本、ちょっとこっちに見せてと言いたい。
「大奥様、ほ、をこっちに見せてください。ぎゃくです」
善逸が言ったので、大奥様が手本を見せてきた。言えば貰えるようだ。

「ほ……」
不格好な字が出来ていく。筆が上手く使えず、墨が落ちたり、丸が大きくなりすぎたりする。変な形の『ほ』がたくさん。善逸は文字って面白いなと思った。

いろはにおえどちりぬるを、わがよたれそつねならむ、ういのおくやまけふこえて……。
善逸はいろは歌を歌った。誰かが戯れに歌っていた。

「分かるんだけど書けないねぇ」
染助が楽しそうにしているので善逸は話かけた。誰かが言ってた。歌は分かるけど字は書けないと。
「とがなくしてしす、って誰が考えたんだろう?誰も知らないんだって。知らないのに皆が知ってるんだって。すごいねぇ……」

「善逸さん、喋らないで下さい」
「あ、はい」
善逸は黙り込んだ。
いろは歌は分かるようですね。通りで覚えが早いわけです。染助さんもこのくらいはするように。桜さん、次までに覚えさせておくように」

「……はい。大奥様」
善逸は奥様の声を久しぶりに聞いた。

■ ■ ■

その夜、善逸は染吉に呼ばれた。

「今日は偉かったらしいね」
染吉が言った。染吉は何かを飲んでいる。
いつも通りの顔でお酌をしているのはお鈴だった。
「おまんじゅうをあげよう」
「……」
善逸は饅頭を見た。今は腹が減っていない。いずれ減るだろう。貰っておいた方がいいのかもしれない。貰って良いのだろうか。
善逸は首を振った。

「いらないのかい?」
欲しいのかどうか、よく分からなかった。
「それはなに?」
善逸は染吉が飲んでいるものを見た。

お鈴が睨んだので善逸は固まり、言い直した。
「ヒッ。それは……なんですか」
「これはお酒だよ。さすがにまだ早いかな」
さけ。ああ、あれかと思った。酒もってこい、と男が良く言っている物だ。

「ところで、善逸、君はどういう育ちをしたのかな。牛込にいたと言うけど、遊郭で下働きはしていたかな」
「?」
善逸は首を傾げた。前に言った気がしたからだ。
「さっきのことですか?」
善逸は言った。先程善逸が来る前、染吉がお鈴に言っていた。
『意外と学があるのかもしれない、遊郭にでもいたんだろうか、聞いてみようか、おい、誰か、善逸を呼んでくれ』と。

「いいや、今の事だ」
「?」
善逸はさらに首を傾げた。
「そうでないなら良いんだ。もう少し詳しく、ここに来るまでどうやって暮らしていたか教えてくれるかな。生まれてから、珠世さんに拾われるまで」
染吉が言った。善逸はようやく意味が分かり頷いた。

「ああ。ええと……ずいうんかくの前に捨てられていて、そこに拾われて、多分また捨てられて、あとは……」
何と言えばいいか分からない。孤児だった善逸は、人に物を貰って、とにかく戸をたたいて生きていた。同じ孤児の、今はもう死んでしまった子供がやり方を教えてくれたというか……単に見て真似しただけだった。そう言いたいのだが、上手く言える気がしなかった。

なぜか嫌な感じがするのだ。腹の底からぐつぐつという音がして口が回らない。
喉がぎゅうっと締め付けられているようだった。喉が痛くて、自分の心臓がうるさい。
善逸は眉尻を下げた。

――端から見れば、ろくな生き方じゃない。汚い物乞いだ。
――だけど体売るよりきっといいさ。男で良かったよ。俺もお前も。
――産んで、捨てる、産ませて捨てる。本当に馬鹿馬鹿しい。
――ああせいせいする……。
死んだ子供がそんな事を言った。

「……」
悲しい、と言う物……。嬉しい、と言う事。美味しいと言う事。
優しい珠世。優しい愈史郎。優しくない染吉。おかしな大奥様。悲しい、怖いと言っている桜。感情の『音』が足りない染助。どこかあきらめているお鈴さん。普段は優しいのに怒ると急に怖い五郎。怒っている同じ部屋の子達。

何が何だか分からない。
今まで分からなかったことが急に分かるようになって、怖くなった。
怖い。そうだ、怖いんだ。

……この屋敷は恐い。
寝静まった後、音が聞こえる。何かを叩いている。
何の音かは分かっている。善逸は青ざめた。

「どうしたのかな。ああ、言いたくないなら言わなくていいよ」

気遣う音がする。この音は心配の音。そうなのだが。そうとも言えない。何を思って気遣っているのか。善逸は耳を疑った。本当に、自分の耳を疑った。生まれて初めての事だった。善逸は、この人はおかしいと思った。
心配している?なんで?だって奥様が痛い思いをしているのに、染吉は奥様とはずっと何も話していない。染吉が折檻されると言った時に、怖がっていたから染吉も嫌なはずなのに。大奥様に、それは奥様が悪いと言っていた。大奥様はいつも凄く大きくて凄く汚い音を立てている。うるさすぎてしんどい。

文字に意味があったように、あ、という音にあ、という文字があったように。
善逸の聞いていた音にも全部意味があった。
体の音。声の調子。弾んだ音。
気持ちにくっついて、音が変わる。
善逸にはまだ読めるけど書けない。

(……きっとそういう物だったんだ)

「はい」
善逸はひとまず返事をした。自分の声と音を聞くために。
聞けばそうだろう。嫌な気持ちの音がする。自分の音は聞いちゃいけない。
善逸はこの場で一番ましな、お鈴の音に集中した。そういえば、女性の音はだいたい柔らかくて心地よい。お鈴も、珠世ほどではないが柔らかい音がする……事もある。お鈴の音はだいたい短調で、上を滑るような音だった。

善逸は考えた。これって何の音だろう。
「もう、いいんじゃないですか。まあ孤児ですし。特に言う事も無いかと」
お鈴が言った。
善逸は、これはすごく興味なさげ……。つまり無関心の音だと思った。
でも、本当は心配している。

「大奥様に旦那様から取りなして、この子が坊ちゃんの面倒を、ずっと見れば。坊ちゃんも手習いはできた方がいいですし。万が一、大奥様を怒らせて折檻されても、まあ知らぬ存ぜぬで済みます」
お鈴が言った。お鈴の音は目茶苦茶だった。
焦っているようにも思えたし、苛立っているようにも、心配しているようにも、不憫に思っているようにも。どうでもいいと思っているようにも聞こえる。
よく分からず、善逸は耳を傾げる――そんな表現はないのだが、少なくとも善逸は『耳を傾げた』。

「何をしているんだい?耳がどうかしたのか」
知らぬ間に耳に手を当てていたらしい。染吉の声が聞こえた。
「聞こえにくくて」
耳を撫でて、善逸は言った。
音がごちゃごちゃして聞き取りにくかった。
改めて意味を探そうとすると、いくらでも探せてしまうのだ。人の音、葉が揺れている音。足音……。喋る声……。空気の揺れる音。

――翌朝、善逸は高熱を出した。疲れもあったのだろう。
三日ほどして、熱が下がった後、善逸はいままで出来ていたことが出来なくなった。

やり方は分かるのに、体が上手く動かない。
ひどくゆっくり、どんくさくしか出来ない。体が空気に捕まって、ずしりと重くなったようだ。今までのような軽い物では無く、重たい空気だ。
善逸は足音、衣ずれ、少しの音にも驚いた。風が吹けば飛び上がったし、葉が揺れれば悲鳴を上げた。水を撒けば泣き出した。
人の音が気になって仕方無い。隣に眠る子供の寝息がうっとうしい。嫌な音で眠れない。

体がきしむので、足を前に出すのも恐かった。
怒られながら仕事をした。そして失敗して、また怒られた。

善逸はたったそれだけで、諦められた。コイツは駄目だと。
あまりにもあっさりしていて、どういうこと?と思った。少し前までは、悪い音はしていなかった。それが急にどうでも良いと。
丁稚仲間は善逸を無視するようになった。
やっぱり孤児は駄目だとか、色々な音が聞こえる。どれもいい音ではない。また泣いてるとか、みっともないとか、気味が悪いとか言われた。
『みっともない』に関しては、善逸もそう思っていた。
少し前までは出来た事が、どうして出来なくなったのだろう。
今まで気にならなかった音が気になって、恐くて仕方ない。

大奥様との手習いはただひたすらに苦痛だった。
奥様は嫌がっているし、大奥様は馬鹿みたいに汚い音しかしない。汚いなんてもんじゃない。一体どうしてこうなったと、言いたいのだが訳が分からない。自分の声も音に埋もれている気がした。喋っても聞こえない。

ぐるぐると視界が回って、ろくに文字が書けない。線はしっちゃかめっちゃかになって、半紙からはみ出した。墨の音も気になる。息が出来ない。
「具合が悪いの?」と誰かが言った。奥様の声かもしれない――。

■ ■ ■

気が付いたら布団で寝ていて、触られて目を開けると誰かがいた。
これは医者で、さっきお鈴が出迎えていた。

医者は聴診器、と言う物で善逸の体を触った。
「ふむ……。まあ、体は問題無い……」

「手紙に耳がいいと書いてあったらしいので、そのせいかも」
つっけんどんに言ったのはお鈴だった。

「気色悪い子です」
お鈴は言った。
善逸はどうしてそんな事を言うんだろう。と思った。
お鈴はそこまで思っていない。お鈴は周りが言うから、面倒で言っているのだ。適当に合わせているとも言う。大体の事に興味がないのがお鈴だった。

「はあ、なるほど……耳は専門外なんだが……、君、自分で、人より耳がいいと分かるか」
医者が言った途端、お鈴が息を詰めた。
「この子はなんも分かっちゃいませんよ。まだ五つ。ただの子供です」
呆れの音がした。
善逸は少しほっとした。
お鈴は裏表がなくて分かりやすいというか……。少し落ち着く気がした。
喋らないと。
お鈴の音と、医者の音だけを聞いたら良いかも、と思って、善逸は音を探した。
その時、善逸はそういえば、目は?と思った。最近、ずっと目の前が真っ暗だったのだ。

善逸は、あっ、と思った。初めて気が付いた。
もしかして、自分は今、目を閉じている?
瞼が重たい。開く気がしない。でも開けないと見えない。善逸は歯を食いしばった。
唸って、首を振って、拳を握って、ようやく目が開いた。

「……」
医者が見える。お鈴も。覗き込んでいる。

「……起きた……?」
お鈴が言った。

「僕、ずっと、目、閉じてた?」
目は開けていたかもしれないが、見ていなかった。耳ばかりに気を取られて。
善逸はそうだったんだと思った。耳だけ、音だけ気にしたら駄目らしい。目も開いて見ないと。目を使っていなかったら、それは何もできない訳だ。体が重くてしんどかったのはそのせいか。

「何言ってるの、この子は?ずっと眠そうに半目だったわよ。叩かれてもヘラヘラして。気色悪いったら」
お鈴は変わらず、呆れた様子で言った。
目で良く見ていると、それくらいしか分からない。善逸は困った時はこれでいこうと思った。じっと見ればいいんだ。見る事に集中する。そうすれば、音も気にならない。
じゃあ目を閉じて寝る時はどうすればいいの?と思うけど、きっと、何か方法がある。

それからしばらくして、善逸は、泣き声がうるさい、気色悪いに加え、いびきがうるさいと言われ、自分から押し入れで眠るようになった。

■ ■ ■

不思議な物で、半年経つ頃には、辛かったが仕事はそれなりにできるようになっていた。

大奥様は、善逸が染助より良く出来ると怒るようになった。

初めは善逸が染助より良く出来たら嬉しそうにしていたので、不思議に思った。
もちろん泣いた。
……言ってはなんだが、善逸が良く出来るのではなくて染助が何も出来ないのだ。
でも染助だって「い、ろ」の二文字までは書けるようになったし、大進歩だと思う。染助は、人より少し進みが遅いだけなのだ。

その日は染め物に使う大量の草や枝を物置から煮炊き場まで運ばされた。
善逸一人でやれと他の丁稚にいわれて、え、無理、と思ったがやり始めた。他も忙しいらしい。
やっと半分ほど運んだ時に遅い!と言われた。
善逸は涙目になりながら頑張った。なんとか終わった。
「つぎはなんですか?」
言いつけられるままに働いていると、お鈴が来た。

「善を借りていくよ」
お鈴は言って、有無を言わさず、善逸の手を引いた。
「きょうはなんですか?」
お鈴は外出着を着ていた。一目で使用人と分かるようなものだが、普段の物より上等だった。髪もいつもよりまともに結っている。

「今から大奥様と奥様と、今日は旦那様もお出かけになるから、坊ちゃんのお守をしてほしい。私もついていくから。頼んだよ。食事は作ってあるから」
大奥様は暇らしく、たまに思いついたように奥様を連れ出す。だが今日は染吉も一緒らしい。

善逸にとって子守は楽な仕事だったので、一も二もなく頷いた。
染助に食事まで食べさせるのは三度目だ。

「お鈴さんはいつ帰ってくるの?旦那様達は?」
「晩まで戻らない。坊ちゃんの晩飯はお信乃に言ってある」
「坊ちゃんは今一人?」
「いや、お信乃が面倒を見てる。旦那様方に挨拶しろ」
それだけ言うと、門前で手を離した。門前には三人がいた。

「旦那様、お待たせしました」
お鈴が言った。
お鈴のこの調子にもすっかり慣れた。旦那様にはそれなりに柔らかい物言いをする。
お鈴は『はすっぱ』と皆に言われていたけど、粗野、と言う方が良いのかもしれない。

「旦那様、大奥様、奥様、行ってらっしゃいませ」
善逸はぺこりと頭を下げた。

「じゃあ、行ってくるよ」
そう言って、染吉が言って出ていった。
善逸は染吉がどういう人か丁稚の話すのを聞いて知っていた。
どうやら妾が四人もいるらしい。仕事は順調で忙しくしていて、出かけていることの方が多いが、その出かけの中には妾の機嫌取りも混ざっているとか。善逸は大変そうだなぁと思った。
これはお鈴に言われたことだが、奉公先の家の事情に口を挟んではいけないらしい。
絶対に言うなと、お鈴はそればかり言った。善逸の顔を見れば、毎回言っている様な物だ。「奥様の所や、このお屋敷で見聞きしたことは、何も言わず、口を閉じていろ。言ったら追い出されるよ」と。

門を出た途端に、また大奥様の小言が始まった。
それはなるべく気にしないようにして、善逸は子守へ向かった。
染助の泣き声が聞こえる。染助は気に入らない女中相手だとすぐぐずって泣く。

「お信乃さん、来ました」
「ああ、やれやれ……。ありがと。あなたの分も運んであるから、ここで食べなさいな。分かってるだろうけど、坊ちゃんの食事に手を付けては駄目よ」
お信乃は二十ほどの娘で、お鈴に比べれば平坦な顔立ちをしている。
お信乃は染助の部屋に昼の膳を運んで来ていた。善逸の分もある。使用人用のまかないで、ただの茶碗飯だが二食あるだけありがたいらしい。
「はい。ありがとうございます」
善逸は礼を言った。お信乃はじゃあ後はよろしく、夕めしが出来る頃に台所に来て。と言って戻って行った。

他の丁稚達は子守の時に、善逸が良い物を食べていると思っているらしいけど、そういう訳でも無い。
「坊ちゃん、いただきますして食べよ」
染助は不思議そうに首を傾げた。善逸はとりあえず染助に箸を持たせ、これはあれで、これはこれで、こうやって食べると説明しながら食べさせた。
その後自分の飯をかき込んだ。
おかずが欲しいけど我慢する。飯が貰えるだけありがたい。
膳を返した後はお手玉をして遊んだり、字を教えたりした。絵本を読んだりもする。

「そのときです、じいさんが助けたすずめがあらわれ、くちばしで鬼をつついて、目をつぶしました。おかげでじいさんは命からがら、逃げおおせました。ああ、よかった、そう思って、ふりかえると、すずめの姿がみえません。ついてきているとおもったのに……、おそるおそるじいさんがもどると、すずめはつぶれてしんでいました」

挿絵のある本を三冊ほど読んで、その後は絵を描いた。
染助は文字は書けないのだが、絵らしきものは描ける。後で見せれば喜ばれる。
畳を汚すと怒られるのだが、既に書き物用の机は墨で汚れている。その上なら大丈夫と奥様に言われた。
「上手だねぇ、すずめかぁ」
染助は雀を見た事はあるのだろうか。ずっと閉じこもっているようだけど。奥様と中庭には出ているようだし、あるのだろう。
「字もかけるかな。く、とか簡単だよ。ほら、く。ああ、出来た。ほが練習したい?ほ、はこう」

染助がうとうとし始めた。眠くなったらしいので、布団を敷いて寝かせた。子守というのはなにかやっていた方が良いのだろうと、染助が眠るまで子守歌を歌った。

ねーんねんころりよ、ころりよ……。

あまり寝かせてしまうと夜に眠ないらしいので、しばらくしたら起こす。
その後はこまを回して見せた。
善逸は夢中で回す。こまは音が面白いのだ。染助が楽しそうに見ている。静かでいいなぁと思った。

夕飯が終わって、遅いねえと言っていたら、屋敷が賑わう音がした。
帰って来たらしい。
「坊ちゃん、お母さんが帰ってきたよ」
善逸は溜息を付いた。

この後、大奥様に怒られるまでが子守の仕事だ。
理由は大体、染助のおかずを取ったとかそういう事。
大奥様はそう心から思い込んでいるようで。善逸と奥様にいちゃもん付ける為に色々やっているようだ。

善逸は他の家を知らないけれど、他のお屋敷にいた使用人曰く、どこもこんな物らしい。
多分違うだろうなと思ったけど、他のお屋敷を知らないので黙っていた。

平和と言えば平和な日々が続いていた。

■ ■ ■

それから三日ほど経ったある日、善逸は唐突に、旦那様からお使いを言いつけられた。
染助の着物が出来たから、お鈴と一緒に出かけて貰ってこいと。
他の子はお使いやら荷物運びで結構外に出ているのだが、善逸は小さいので外に出ていなかった。
「本当ですか?」
街へ行けると分かり、善逸は喜んだ。

「ああ。ついでに甘い物でも食べるといい。金はお鈴に渡したから」
「わぁ!ありがとう旦那様」
「――ありがとうございます。でしょう。この子は全く!」
お鈴が睨んだ。
「ヒッあ、ありがとうございます」
善逸は言い直した。

久々に出た外は賑わっていて、色々な会話が聞こえてくる。
善逸は、屋敷の外は広いんだと、改めて思い出した。だからといってどうと言う事も無いのだが。

離れるなと言われたので、善逸はお鈴の後に付いて歩いた。

「ねえ、どこに行くの?錦屋さん?」
染吉がそう言っていた。善逸と錦屋さんに行ってこいと。
「――善、だから、無駄口は叩くなって……。……この際だから言うけど、人はお前ほど耳がよくないんだよ。お前の半分も聞こえない。隣の部屋の声も聞こえない。自分が寝ている時に聞いた事も、覚えちゃいない。だから嫌われたくなかったら、聞いた事は全部、自分の腹一つにおさめて、知らぬ振りをするんだよ」

お鈴は少し疲れているようだった。最近、屋敷や、お鈴の様子がおかしい。
奥様は姿を見せないけれど、多分、具合が悪くて臥せっている。染吉は帰っていないようで。大奥様が屋敷を取り仕切っていた。といっても、皆何をすればいいのか分かっているのでしょっちゅう出て来て使用人の仕事ぶりを監視するくらいだ。あれが駄目だとか、これがこうだとか。屋敷の女中は心の中で煩わしそうにしながら、大奥様の言う事を聞いていた。

善逸は、染吉と大奥様、奥様がそろって出かけてからの三日は、お鈴が奥で看病してひたすら染助の世話をしていた。
他の女中から、奥様がお風邪を召されたから、しばらくは染助の面倒を見て、仕事はしないでいいと言われた。

――お鈴が溜息を付いた。
「お前はそのうち一番聞いちゃいけない事まで聞きそうで。嫌になる。誰も言う奴はいないと思うし、言うなって言っているが、馬鹿なやつは何処にでもいる。いいか、余計な事は言わないで……黙ることを覚えるんだ。分かったか、耳で聞いた事は何も言うな、分かるか、分かるよな、分かるよな?」
お鈴がじとじとと言うので、善逸は頷くしかなかった。

「い、言ってないよ」
善逸は言った。
「今言った。自分で気づかないうちに言ってる。お使い先は錦屋だって、さっきの、旦那様と私の話しを聞いたんだろう。でもそれは普通は、聞こえないんだ。お前は面と向かって、目の前で聞いた事以外は、聞かなかったことにしろ。それで万事解決さ」
お鈴が言うので、善逸はやっと、なるほど、と思った。

そういうことだったのかと思った。意外と人は聞こえていないと気が付き始めていたけれど、どういう風にすれば良いのか分からなかった。

「わかった。そうする、面と向かって、目の前で聞いた事しか言わない」
「馬鹿な子だね」
お鈴が苦笑した。

お使いを済ませ、初めて茶店に入った。
席に着くと、お茶が出されて目を丸くする。飲んで良いの?とお鈴に聞いたら、これはタダだから飲んで良いよ、と言われた。飲んでみたが、熱かった。

「団子とあんみつ、どちらが食べたい?」
お鈴が、珍しく楽しそうに聞いてきた。
「あんみつ!……どっちも!」
善逸は言った。
「片方だ。すみません、あんみつと、おだんご三本下さい~」
お鈴が言った。あいよ、少々お待ちを、と言う声が聞こえた。

「お前は算盤を弾いているか?」
善逸は首を振った。この一年、しつこいくらい仮名文字を練習している。
善逸はもう自分で勝手に次へ行きたいと思ったが、大奥様曰く、許しがあるまでは駄目だ、何事も、基本が大事らしい。

多分教える気がないのだと思ったが……。かな文字で、古い本の読み書きはさせてもらえるので、まあいいかと思った。
「かな文字しかできない。本を借りて、古い本を書き写してる。巻物って言うんだって。ありがたい先祖のことば。かくん、とか。でもなんか、ぐにゃぐにゃしててよく分からないの。それもかな文字らしいけど、意味を教える気がないみたい。し、とかどの字も凄く長いの。本当に下手くそな字でよく分からない」
「何それ?……まあお前は良くやってるよ。大奥様方に気に入られているし……」

お待ち、と言われ先に団子が置かれた。
お鈴は一本やると言って善逸に渡した。

「くれるの?」
「分けた方が美味しいし……、食べれば一緒だから。実の所、量は余り関係ないから、食い物を入れて、腹と頭をだませれば良いんだよ」
「……?全部いっぱい食べたほうがいいんじゃない?」
「そうとも言えないさ。そのうち分かるかな」
お鈴が言って、善逸にあんみつが運ばれてきた。善逸は目を輝かせた。
「おいしそう、すごい。きれい!――お鈴さんも食べる?」
「いらないよ。お前のだから、お前が全部食べれば良い」

「でもさっきお団子食べたし……、悪いよ」
お鈴も甘味は余り食べられないはずだ、と思って善逸が言うと、お鈴が笑った。

「つまり、そういうこと。まだ難しいかな」

「?ひとと……分けた方が食べやすいってこと?」
「まあそれもある。でも色々あるんだよ。善は小さくても男だから、女には気をつかわないといけない。団子一本丸ごと、ならいいけど、あんみつ、とか皿に入った物を女とわけあっちゃあいけないよ。二つ頼むんだ。いいかな?」

「ねえ、お鈴さん……もう少しおしとやかにできないの?女の子でしょう」
善逸はずっと思っていたが、お鈴はかなり変わっている。
見た目は女性なのに、中身はまるで男だ。でも女性なので、何なんだろう?と思う。混乱する。
「お屋敷ではもう少し、女の子っぽかったのに」
善逸は言った。初めて一緒に外に出て……今日は何と言うか、いつもより酷い。やる気がないという感じか。

「できるけど、屋敷じゃしてるけど。こっちが素だしなぁ。……まあ、生まれの意地と、自衛みたいなもんか。全く、染吉は、ほんとどうしもようない女タラシだからな……。女中もお手つきばかりだし」
「??そうなんだ?おてつき?」
善逸は戸惑った。
「色事だし、大きな声じゃ言えないけど。まあ皆知ってることだ。いつお前が言い出さないかひやひやしてたよ。お前は子供だから、さっきも言ったが、どんな事でも自分が目の前の人間から聞いた事以外、言ったらいけない。言うと大人が腰抜かすから。――それはそれで面白いけどね……、いや、そうだ」
善逸はお鈴はあまり喋らないと思っていたが、そうでも無いようだ。

「善、お前はまだ間に合うよ。まあ、他でもいいんだが、他もなぁ……、お前はまだ間に合うから、ああはなるなよ。一夫一妻。妾なんて持つな。男なら、惚れた女を、たった一人だけ、生涯をかけて守り抜け。口だけじゃだめだ。泣かせるなんて以ての外。泣いている女を見たら助ける。女は男よりも弱いんだ。今は……難しいかもしれないが、覚えておけ。これからそういう男になれ」

「???今日はどうしたの?」
善逸は思わず言った。
「……ただの愚痴かな……、気分転換さ。さっさと食べて戻るか……、ああ、嫌だなあそこは。もうやめたい。やめようかな……」
ぼつりと言ったのが本音だというのは分かった。
「やめる?」
「もう十分働いたし、どこかの飯炊きでも、下働きでもすればいいし……、ああ、子供にこんな話、するもんじゃないか……。でも給金はいいんだよな……。さっさと嫁に出して貰えれば良かったのに。染吉はなぁ……。妾になれってうるさい。言っちゃあ何だが、私はまあ、そう良い見た目でもないのに。なんだかな。もう、そろそろやめるから、あとは善が頑張れ」

「え?やめるってなに?どういういみ?」
「はぁ……馬鹿だな、やめて違う屋敷に行くんだよ。この前、一人、職人が辞めただろう。江戸時代ならともかく、今のご時勢、働き先は一つじゃないから、お前がもう少し、大きくなって、ここがいやだ、働く場所を変えたいと思ったら、主人にそう言ってやめていいんだ。でも最低でも、漢字の読み書き、算盤くらいできなきゃどこでも雇って貰えないし。普通は尋常小学校に上がらせて貰えるけど、お前みたいな、訳ありの孤児は苦労するよ。私みたいに、どこかの養子に入れれば良いんだけどなぁ。あまり欲しがる親もいないし……」

「そうなんだ……?」
善逸は食べながら、良く喋るなと思って聞いた。合いの手も挟めず、そうか、舌を巻くとはこの事かと思った。

「だから自分で賢くなって、色々覚えて、一人で生きていくのがいいさ。染吉に、算盤くらいは仕込んでみたらって言ってみるけど、どうだかな……」

「ごちそうさま……すごく美味しかった、です。……帰らなくて良いの?」
お鈴はもはや、暇を潰すために話している、と言った様子だった。

「それが、夕飯まで遊んで、帰らなくてもいいと……、奥でもめてるから、できる限り、お前にいて欲しく無いらしい。あまり買い物は出来ないけど、街でも見て回ろうか?」

お鈴が言うので、善逸は街を見て回った。見た事のないものばかりで楽しかった。
今日はお鈴も楽しげで、善逸も楽しくなった。
お鈴と小間物屋を覗いて、そう言えばこんな簪を挿した女性を見た事があるなと思った。

「そろそろ帰ろう」
お鈴が善逸の手を引いた。手を握られたのは初めてで、善逸は驚いた。
「お鈴さん、いつかぼくと結婚してくれる?」
善逸は言った。お鈴は道行く親子を見て、ああ結婚したいと呟いていた。
お鈴はぽかんとした後、からからと笑った。
「さすがに、年下過ぎるなぁ……」

「お前がもう少し年が近かったら、まあな。でもお前は弱っちいから、もっと強く無いと。さすが牛込育ちはませてる。相手と年が十離れてたら諦めな」
「お鈴さんはいくつ?」
「二十三。お前とは十八も違う。これは……駄目だな」
「ええ!?しようよ、結婚!」
「あのなぁ。私は稼げる男でないと駄目なんだよ。借金があるし。あ、そうだ、借金だけはするなよ!そうだ。男は借金はしたらいけない。酒も程々に、賭博もいけない、女遊びもいけない。あとは、暴力は駄目だな。真面目に真剣に付き合え……。本当に、染吉だけは見習うな。昔はああじゃなかったのに……」

お鈴は、染吉とは昔から知り合いで、親の借金を肩代わりしてくれたと言った。
染吉はお鈴をそのまま嫁にする気だったのだろうが、お鈴は染吉とは家柄が釣り合わないし、別に好きでも無かったし、妾になるのは心底嫌だと言った。
染吉が真面目なら良かったのだが、お鈴曰く落第。仕事は真面目にできるが下半身がだらしない。どちらかといえば嫌悪している。
お鈴は女中として下働きをして、金を少しずつ返す事で話が決まった。
男としては嫌だが、人柄自体は嫌いという訳でも無く。今では落ち着き、友人のような関係だと。

「今でもたまに妾になれっていうけど、さすがにもう、諦めた匂いがする」
「?匂い」
「こっちの話。気にするな。あれで無理強いはしないから、程々に良い奴だろうな。借金も少しは減ったし……まあ……、あのクソババ外道め……。いいかげん離れた方が良いんだ。そうだな、よし、もう辞めるか。金は送れば文句ないよな。……うん……やっていける」

どうやらお鈴は本気でやめるようだ。
善逸は、正直、お鈴が屋敷で一番いい音がすると思っていた。
大きな木のような暖かい音……でも中は空洞。

「やめちゃうの?じゃあぼくもつれってって!」
それがいい、と善逸は思った。お鈴はきっと寂しいのだ。
「馬鹿言うなよ。さすがに養えない」
お鈴は笑った。

■ ■ ■

子供を人に預けて、一年。珠世と愈史郎は未だ牛込にいた。

しかし、珠世と愈史郎は近々、牛込を出ようと考えていた。
やはりここは住みやすいとはいえないし……無いと思うが万が一、あの子供に訪ねてこられても困る。
愈史郎は住みながら新しい場所を探して、目星をつけていた。
愈史郎は張り切っていたのだが、珠世は今はさほど急ぐことはないという様子だった。

……珠世は先月、あの子供の奉公先に手紙を出した。
その返事を待っているのだ。

愈史郎はそんな事をする必要はないと言ったのだが、音信がないのも不自然だし、一、二度くらいは、と珠世が言った。

一度目は様子を尋ねる手紙。
子供を預けてから半月後に出だした。
これは染吉からすぐ返事が返ってきた。
よく気が付く良い子だと。学は無いが、幼いながらに頑張っているから大丈夫だと思う、きちんと育てるから、安心して欲しい――と。そういう事が書いてあった。

二通目の手紙には、遠方に行くことになったのでこれからも頼みます、便りはこれでお終いですと書いたのだが……。

「珠世様、そんな事を言って、のんびりしすぎです。奉公先が嫌になったら、戻ってくるかもしれませんよ」
「遠いし、それは無理でしょう。四つか五つですもの」
珠世が言った。
「いいえ!俺なら戻ります!珠世様!珠世様はご自分の美しさを自覚なさってください!」
愈史郎は珠世に言った。

「それとも……何か気になることでも?」
愈史郎は言った。
珠世には何か思うところがあるらしい。
珠世は普段はのんびりしているが、家移りの時には素早く動く。戦いの時にも。

「……もう少し、せめてあと半年は育ててから、奉公に出してあげれば良かったと……愈史郎は気づいていましたか?あの子の、耳の事を」
珠世が言った。

「ああ。そういえば、人より耳が良かったようですが……」
珠世に言われ、愈史郎は思い出した。
あの子供は珠世が帰ってきたのを聞き取ったり、下で話していた事を知っていたり。
確かに……人よりかなり耳が良かったのだろう。

「あの子は、私達が人でないと気づいていました。人と違う音がすると。……そんな子を、何も知らせずに、何も教えずに外に出してしまってはいけなかったのかもしれない。一昨日、街であの子の噂を聞きました。最近は見ないけれど、二才、三才、ごろの子供が、物乞いをしていた。あれは鬼の子だったと……あの子の事かは分かりませんが」

「つまり、奉公先で苛められ、あっさり死んでいるかも知れないと?」
「よしなさい、愈史郎。そんな事は無いでしょうから、つつがなければいいのですが、まだ返事が来ませんね……」

珠世は呟いた。

珠世はこちらの居所を封筒に書かずに出したので、宛先が無くても帰って来る事はない。
勿論手紙の文面には書いてある。表向きは里心を付けさせないための用心。
以前はそれで届いていた。

「そうですけど。でも一通目は返事がすぐ来たじゃないですか。問題無いようですよ」
愈史郎は手紙を珠世にひらひらと見せた。

「愈史郎、一度、様子を見に行きませんか?」
「はぁ!?珠世様!何をおっしゃっているんです!?正気ですか。っ……何で孤児なんか、関わらないといけないんです?外に出そうと言って、珠世様もそれがいいとおっしゃいましたよね?もうあの子供がどうなろうと知ったことじゃない。捨て置くのが一番です。それとも――まだ、育てて俺達の世話をさせる気ですか。そんなものは明らかに不要です。危険しかないです。それに珠世様が訪ねて来たと知ったら絶対に、ついてくるに決まっています!」

珠世に言われ愈史郎は猛反対した。

「いいえ。連れては来ません。無事に暮らしていればそれでいいのです。けれど……」
珠世は、まだなにか懸念があるようだ。

「……まだなにか、気になることでも?」
「いえ、最近……四嶋屋さんからの品が、ぱたりと入らなくなったと」
珠世は言った。
四嶋屋の染め物、織物はこの辺りでも稀に扱われていた。
珠世はその店の一つを何の気なしに眺めていたのだが、あの趣ある縞模様を見なくなった。単に売り切れかと思って、在庫がないかと聞いたのだが。
さあ、急に、ぱたりと入らなくなって。どうしたんだろうね、と言われた。

「そのお店も問屋から仕入れていたそうなので、事情は分からないのですが。なにか不幸があったのかもと、心配になってしまって」

愈史郎は、眉を上げた。
「――それは、何かあったのかも知れないですけど、別に、仲買と切れたとか、仕入れをやめたとか。あとは、一時的な事かもしれないし。その程度、俺達が出しゃばる事じゃありません」
愈史郎は言った。

珠世は気が気ではないという様子だ。
「……分かっています。……ああ、手紙を出すのではなかった……」
珠世が項垂れた。
「あり得ない程、危険です、分かりますよね」
「ええ。もちろんです。もう気にしないことにします」
珠世は気丈に言った。

珠世はその言葉通り、愈史郎も普通に淡々と過ごしていたのだが、珠世はあちこちにぶつかったり忘れ物をしたりした。

三日後。

「うわぁあ!――ああもう、分かりました、行きましょう!!」
愈史郎は叫んだ。

■ ■ ■

愈史郎と珠世は鬼である。
室内ならともかく、屋外では夜しか活動できない。

移動は短いに越したこと無い。必要があれば走った。
以前住んでいた場所だという事もあって、二日後、無事に到着した。この街で使っていた家が空き屋として残っていたので、そこをそのまま宿に使う事にした。
他にもう一つ退路として宿を確保して、三日目、ようやく屋敷へ向かったのだが。

屋敷の門が閉ざされている。それどころか、人の気配がない。

これはどうやら、やはり何かあったようだ。引っ越しか?いや……。
愈史郎と珠世は、何があったのか調べなければいけなくなった。

……珠世はおそらく、この街の人の記憶に残っている。
その場で軽く打ち合わせをした。

結果、珠世を帰し、愈史郎が一人で調べる事になった。
愈史郎はここに居た当時は病弱と言って、外に出ていなかった。

珠世が言っていた料理屋に行く。
ちなみに席を取ると飯を食べなければいけないので、火急の振りをして、戸口に妻の方を呼び尋ねた。

あの屋敷に以前の知り合いがいたので、久しぶりに来たついでに、明日にでも寄ろうと思った。しかし先程通りかかったら、灯りもなく、門が閉まっている――。

「あそこはどうしたんですか?……灯りもないし。夜はそんな物なのかな」
店に入らず、愈史郎は言った。
目の色も、言葉遣いも記憶に残らないものに変える。
そこは夫婦が営む所で、珠世の言う通りの屋号だった。

「ああ、……あのお屋敷ね……書生さんの知り合いって誰だい?」
料理屋の妻が言った。

「俺の知り合いは、お鈴という女中ですが……」
愈史郎は深い事情を聞くために、珠世が覚えていた女の名を出した。
愈史郎は『先に決めておいて良かった、さすがは珠世様』と思った。

もちろん、だいたいの人柄は聞いてきた。
蓮っ葉に話す、若い女中。容姿も黙っていれば美人の部類、悪くない。明るくさっぱりした性格で顔見知りや知り合いは多い。
この付近の呉服屋の養子だったが、不慮の事故で主人が死亡。
その後、色々あって借金を負う。
知り合いのよしみで四嶋家に肩代わりして貰い、その家で奉公していた。
定かではないが、当時、若旦那だった染吉が彼女に惚れ込んでいた、という噂もあった。年は十は離れているが。染吉の女好きは有名だったらしい。

「ああ、お鈴ちゃんか……可愛そうに、死んだよ。いい子だったのに……他も、ほとんどが死んだ」
「えっ?……、死んだ……って何があったんですか?」
愈史郎は動揺した。

「おまえさん、ちょっと」
妻は夫の方に声を掛けた。

「おまえさんの方が詳しいだろ。この人、お鈴ちゃんの知り合いだったんだと、あの屋敷の事、お鈴ちゃんの墓とかは?」
「ああ、どうするかな」
夫が言った。
「ぜひ教えて下さい。そんな、まさか……どうして?」
愈史郎は言った。

「とりあえず入りな、お代はいらないから、うどんでも出すよ」
「いいえ、すみませんが、先に食べてきたところです。すみません、失礼を」
愈史郎は暖簾をくぐった。
「なら、まあ気にするな。茶くらい出すよ」
「いえ、結構です、お話を……」
愈史郎はハッキリと断った。

「その奥で話そう、おい、しばらく頼む」
「はい」
妻ともう一人、奥にいた息子らしい者が返事をした。
促され、愈史郎は一番奥の席に、差し向かいで座った。愈史郎が奥で、主人は入り口に背を向けて座った。

「お鈴ちゃんか……可愛そうな子だったな……。妾同然で連れて行かれて。はぁ。なんであんな事に」
主人は語った。

「あの家は、もう、二ヶ月くらい前か、九月の真ん中だな。何でも奥様が正気を失って、家人を手当たり次第に殺したんだと。使用人も、泊まりだった者はほとんど、皆死んだそうだ。屋敷は酷い有様だったらしい。丁稚まで死んでたと……」

「……」
愈史郎は絶句した。それでも、口を動かした。

「……あの、ほとんど、とは?丁稚まで?全員ですか?善逸は?」

「ぜんいつ……?」
「たぶん一番新しく入った丁稚です。五才くらいの。聞いた事があって」

「知ってるか?」
主人は妻を見た。
――妻が首を振った。

沈痛な面持ちで、主人が状況を語り始めた。
「……警官の話しじゃ、生き残ったのは、職人の五助ってやつだけで、そいつも正気を失ってしまってな。何でかはわからねぇが、家で首吊って死んだってよ。五助が真犯人じゃねえかって言う奴もいるが、その日、たまたま休みで、飲みに出てたみたいで、状況からすれば、奥様が犯人だとよ。はぁ。分家の子供達が屋敷に来てたって言うから。女狂いのツケが来たって、ならお前らだけにしろって話しだよな」

主人は溜息を付いて続けた。

「……その丁稚も殺されて死んだんだろうなぁ……。お鈴ちゃんは本当に可愛そうだ。身寄りのない子の墓は、地主さんが道玄寺にまとめて作ってくれるって言うから、まあ、一年か、何年か後に行くといい。まだついこの前の話でな。分からない事も多いから、今はとりあえず、屋敷に手を合わせてやってくれ……。お鈴ちゃんも喜んでるだろうよ」
主人は涙ながらに語った。

「しんだ……」
愈史郎は呟いた。あの子供が。
ぽっかりと、心に穴が開いたようだった。

「わかりました……ありがとうございます……」
「気を付けてな」
ふらつく愈史郎の背を主人が軽く叩いた。

愈史郎は屋敷まで歩き、門の前まで来た。

もちろん、手を合わせずに乗り越えた。

■ ■ ■

なるべく目立たない場所、塞いであった雨戸の一つを外して入る。
壊れたふすまが取り払われていたり、まだそのままになっている所もあった。

「……」
愈史郎はまず手前の部屋から見ていった。
妻が暴れて皆殺し。男も居ただろう。それなら昼間ということはないはずだ。
使用人はどこで寝ていたのだろう。
概ね片づいているが、いくつかのふすまがゆがんでいた。布団などはすべて無くなっている。
床に血だまりがあるかと思ったが、いくつかの部屋に畳がない。
これは……まさか。

愈史郎は血の臭いをかぎ取った。しばらく行くと廊下に血の跡があった。

やはり――鬼だ。

愈史郎は匂いに気づいた。屋内なので消えずに残っている。
消えた畳は、警察が片付けたのかと思ったが。鬼狩りの――隠の仕業かもしれない。
他の部屋も見る。

間違い無い。鬼の仕業だ。
鬼の食事にしては喰い方がおかしい。大抵の鬼は、鬼狩りを恐れて狩りには気を遣う。
一家丸ごとというのはあるが、せいぜい、五、六人だし、田舎ならともかく、こんな街中で、しかも屋敷全員とは。残る血の匂いだと……二十人以上いただろう。
余程の阿呆でもやらないはずだ。

となると、鬼無辻無惨。
つまり……その奥方というのが、鬼無辻に鬼にされて、屋敷の人間を喰ったというのが真相か?
五助というのは外にいたから助かった。五助が何故死んだかはどうでもいい。これだけの人間が一度に喰われたなら、さぞかし酷い有様だっただろう。

愈史郎は溜息を付いた。

「……死んだか……」

鬼に助けられ、鬼に喰われるとは。
運がないと言うか……。

愈史郎は、一応屋敷を全部さらってみることにした。
母屋もざっと見る。

「……?」
愈史郎は一番、奥の部屋に来て、違和感を覚えた。
そこが最後だったので、一旦、珠世の元へ戻る事にした。

■ ■ ■

愈史郎の話を聞いて、珠世は目を伏せた。
「そうですか。……鬼に助けられ、別の鬼に喰われるとは……」
珠世は愈史郎と同じ事を言った。

「運がなかったんでしょう」
愈史郎は言って、珠世と同じ感傷に浸った。
少し嬉しいと思ったが、さすがに不謹慎なので言わない。
そもそも己が人と関わったツケがこれだったのだ。

「珠世様、これは全て俺の責任です。貴方が気に病む事は一つも、ひとつもありません!」

愈史郎は、俺が全て悪い甘かった。もっと気を付けて珠世を守らなくてはと思った。
……いたずらに珠世を傷付けてしまった。
子供の事は仕方無い。そうなる運命だったのだ。だから忘れる。
どこで死んでも同じだ。珠世に出会え、珠世の飯を食べただけ幸せだ。
死んでもおつりが来るほどだ。

「珠世様。ここは危険です。どうやら鬼無辻の縄張りになったらしい。明日、戻りましょう。牛込はどうします?」
「そうですね。予定通りに、戻って、引き払いましょう。明日の夜、ここを発ちます。本当はもう少し、北へ行った方がいいのでしょうが……」
珠世は言った。
しばらく、鬼の勢力について語った。西には伊勢尾という、無惨の支配を逃れた鬼がいたが、その鬼は既に死んでいる。古くから生き残っているのは珠世くらいだ。
だが、そうした鬼は他にもいるかも知れない。下手に踏み込むとやっかいな事になる。

「田舎では目立ちます。浅草に良い屋敷がありましたけど、そこは?どうします」
愈史郎が言った。
「……そうですね……ひとまずはそこに」
珠世が言った。やはり身を隠しやすいのは都会だ。
それに田舎では、珠世の美貌が目立ちすぎる。何事かと仰天され、吹聴された事がある。

……珠世と愈史郎の術がなければこれほど上手くは行かない。鬼狩りは執念深い。
実を言うと、珠世は過去に無惨の支配下で多くの人を喰っている。
だが、支配を逃れてからは全く喰っていない。食う気も無い。
……珠世が鬼になったのもう二百年も前の事だ。

愈史郎は珠世の心情を思うと、胸が痛くなる。
もう人を喰わないとはいえ、珠世も粛正の対象だ。
珠世達は稀に情報を流し、産屋敷に恩を売っているから、かろうじて、お目こぼしして貰えているのだ。全く腹立たしい。
一番不味いのは鉢合わせだ。惑血と目隠しの術があれば大抵は逃げられるが、強い鬼狩りや柱にあったら不味いし、普通の鬼狩りでも問答無用で追ってくる。

「お疲れ様でした。愈史郎。そろそろ休みましょう」
珠世が微笑んだ。これから二人はこの家の地下に入る。そこは狭い部屋が二つあって、それぞれ寝台がある。
近くに餌場を作った鬼がいるだけだったので、珠世と愈史郎は、この家に目隠しの術を掛けたまま去った。荒らされてはいなかった。
都合の良い家はあまり無い。狩り過ぎた鬼はいずれ鬼狩りが狩る。
だから何十年も後で使えることもある。

愈史郎は、あの子供に、やはり見張りの術を付けておけば――と思った。
その時は不要だと思った。
だがあの子供に鬼と気づかれていたなら、するべきだった。
珠世が愈史郎に言わなかったので、仕方無いのだが……。

珠世は必要無いと判断したらしい。
実際に、必要は無かったと思うが。こんな事になるなら。
……見張りの術を使えば声を飛ばすことも出来た。まあ、それでも死んだだろうが。

愈史郎は地下への階段を降りる途中、ある事を思い出して言った。

「そうだ。珠世様。鬼にされたのは二人いたようです。鬼無辻の手下かもしれないですが。鬼無辻の他に、あと二つ、鬼の気配を感じました。妻と、まさかあの子供が鬼になったなんて、そんな事は無いと――」

愈史郎が言うと、珠世が衝撃を受けた顔で固まっていた。

「……いえ、無いですよ。別人です、さすがに」
愈史郎は言った。
「愈史郎!その鬼について調べましょう。まさかと思いますが。……もし、あの子で、人を大勢喰っていたなら、鬼狩りを呼びましょう」
珠世が言った。

「いや、さすがにないですよ、それは!」
愈史郎は言った。さすがにないだろう。
だが、感覚の鋭い者は鬼にされやすいかもしれない。
――鬼無辻の人選は適当だが、稀にそういう者も狙って鬼にしている。

「愈史郎、お願いです」
「――はい珠世様!!」
愈史郎は頷いた。

〈おわり〉