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残響① 記憶のかけら 上 【鬼滅の刃】【二次創作】

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#30 残響 1 記憶のかけら 上 (愈史郎×善逸) | 鬼滅の刃 - sungen(さんげん)の小説シ - pixiv

【概要】鬼滅の刃・過狩り狩り 二次創作 長編

カップリング】メイン:愈史郎×善逸 (R18あり)、ぜんねず、ゆしたま

 

残響① 記憶のかけら 上

その子供には名前が無かった。

子供は通りから見えぬ裏路地の片隅。風当たらない場所に座り込み、目を閉じて夜が明けるのを待っていた。
禄に食べておらず痩せている。
着ている物は寒さで死んだ子供から借りた物だった。子供にはだいぶ大きくて引きずる程だったが、その分助かっている。子供は死んでいる者がいて助かったと思っていた。生きているものは着物を手放さない。

体中が痛くて、咳が止まらない。

夜が明けて、日が昇った後、子供は目を開け、ふらつきながら立ち上がった。

往来を行く人は皆、綺麗な着物を着ていた。
子供は紳士の外套思い出し、暖かそうだなぁと思った。それが欲しいと思った。手に入れたところで奪われるのが関の山だが。

子供は首を傾げた。街がさわがしい。
ばたばたと歩く人。恐いくつの音。警官だ。
子供は首を傾げた。きのう何かあったかなと。遠くで聞こえた悲鳴を思い出す。
はたと気が付く。それは聞き覚えのあるものではなかったか。

急ぐこともなく、ふらふらと歩く。誰かにぶつかって蹴飛ばされた。
いつもの裏口が開いていて、子供は久しぶりにその『家』に入った。小さな庭、建物。
表側に警官がいた。悲しむ人。震える人。

「なんだ、お前?」
警官の一人が子供を見とがめた。
子供は血だまりを見ていた。

「……さあ。浮浪児が紛れ込んだんだろ。おら、入ってくんな」
「なにがあったの?」
子供は首を傾げた。ここにあるのが血だというのは分かる。衣服が散らばっている。
血だまりの真ん中に布が掛けてあって、そこが少し膨らんでいた。
「子供が見るもんじゃない。さっさと行け」

子供は布の下が気になった。見たかった。

着物姿の別の男が、ああ。もしかして、こいつ、と言った。
「コイツここの家の母親に、つきまとってたって言う孤児だ!!全く、気色悪い!」
「なんだ?まあいい、出て行け、おい、つまみ出せ!」

子供は手を伸ばした。ああ見えた。何も無い。
「おい!」
子供は殴られ、そのまま外に放られた。

「鬼、鬼が出たんだ……!」「鬼?何言ってんだ?気が触れたか?」「ありゃ人の仕業じゃねえ」「死体が食われて」「まさか」「この前、女が消えたって話だ」「まさか」「まだ決まった訳じゃない」「良くあることだ」「適当に上げとけ。ちじょうのもつれで良いだろ」

子供は街をふらついた。
戸口を叩き、物乞いをする。なにかたべるものをください。
水をかけられたり、桶を投げられたりした。
幾つ叩いたか忘れた頃、手ぬぐいに包まれた冷や飯を貰った。べしゃ、と投げられた。
拾って、ありがとう、と言えばさらに気味悪がられた。もう二度とこないで、次はないからと言われた。すぐに戸口が閉まる。

「ねえ、あの子、いい加減だれか拾わないの?またうろついて」
「おめえ!まさか飯やったのか?」
「――やってないわ!ただ、開けたらいて、びっくりしたのよ!!」
「……っ。あんなもん拾ってどうするんだ。女ならまだしも。それにありゃ鬼の子か化け物だぞ。ありゃぁ……見たんなら分かるだろ」
「っ本当、気味が悪い……本当いやだわ、ぞっとする。うちの坊やと同じくらいなのに……っ気味が悪い、死ねば良いのに!!死ねば良いのに!!本当に気味が悪い!おぞけが立つ!見たく無かった!化け物よあれは!!化け物っ!!」
「まあ、もう気にするな。どこにでも仕様の無い、とんちきはいるんだよ。かかわっちゃならねぇ」

日が暮れ、夜がやってきた。子供は座り込み、着物にくるまり横になる。
子供は目を閉じて――眠り。夜が明けるのを待った。

「……赤ん坊?捨て子か」
洋装の男は道ばたで丸まっている子供に気が付いた。

「ハッ――さすがに、『これ』を喰うほどひもじくはないな。くそ不味そうだ。そろそろ狩り場を変えるか」

「おに」
男が去ろうとした時、子供がつぶやいた。

「――なんだと?……寝言か?」
子供は目を閉じていた。男は足で子供を動かす。
せいぜい二歳か……三歳ほどの痩せ細った赤ん坊?
寝ているようだ。やはり寝言らしい。本能で気色悪いと思った。……こんなもの、腹の足しにもしたくない。
唾を吐きかけ、男は立ち去った。

■ ■ ■

「珠世様、本当にここに住むのですか?俺は反対です!!珠世様にはもっとふさわしいお住まいがあります」
日暮れ後。愈史郎は珠世が見つけた、新しい住まいを見て眉を潜めた。

珠世は医者として、この街に身を寄せる事となった。
街並みに沿った造りで二階建て。炊事場、風呂と、小さな庭に井戸もあるが、長屋も同然、一軒家ですらない。
金はあるのだからもう少しましな所に住むのだと思っていた。
畳は古いし、調度品の一つもない。

「最低限は整っていますし、仕事場から、あまり近くもない。言い訳が出来る距離です。愈史郎と二人、いつものように、父無しの親子という事にしましたから、くれぐれも。人前では母と呼んで下さい。怪しまれたら、駆け落ちの振りを」

「はい。それは分かっています」
愈史郎は頷いた。いつものやり取りだった。
二人は親子ではないが、これからしばらく親子の振りをする。

妙齢の女――珠世。
愈史郎は心の中で賞賛した。珠世様は今日もお美しい、と。

整った顔立ちは、十人の男が振り返るだろう。艶めく黒髪を結い上げ、濃紺の着物を着ている。着物や簪は上等な物で、生活に苦労は無さそうだ。生活感がない、と言うのが正しいか。手荒れ一つ、肌荒れ一つ見当たらない。白々しいまでの美貌だった。

「私は今日から仕事です。地下は、愈史郎に任せる事になりますが……」
珠世が言った。
「もちろんです!珠世様はお仕事頑張って下さい!」
愈史郎は目を輝かせた。

愈史郎と珠世は鬼だった。
鬼は日の光を浴びると死ぬ為、物件を探す際の条件という物がある。
いざというときのために、地下を作れる場所――、つまり、このぼろい家はその条件に合った為に借りたのだ。
小間物屋か、とにかく何か商いをしていた所らしく、入ってすぐに愈史郎の腿ほどの段差がある。
その上の畳を上げれば、確かにちょうど良い暗がりがあった。
入り口の正面は壁になっている。ここには薬棚でも置けばいいだろう。
背中側に折り返す形で階段があり、二階へ行ける。二階は六畳間が二室。
左手奥、階段の下に炊事場への入り口。風呂は厠の前。

珠世には見合わないあばら屋だが、一通り不自由はないかもしれない。いや……狭い。狭すぎる。だが珠世はここが良いと言う。
となれば愈史郎にできるのは、できる限り整える事だ。

「下と、上の窓も塞ぎますね。ここには薬箪笥を置きましょう」
「ええ」
この街では昼間、障子を閉めていても不自然ではないのだが……、それだけでは日の光は防げない。
こういうとき、愈史郎は障子を閉め、窓に白い布を幾重にも打ち付け、その上で家具を使い塞ぐ。一番外に障子がなければ障子か、障子のまがい物を用意してはめ込む。
それが一番自然――ではないが、外から見ても障子にしか見えないし、家に人を上げた時、言い訳が効くと分かっていた。
家具を退けなければ異様な窓は見られない。その間に逃げれば良い。
最も、今まで人を住処に上げた事は無いのだが。

「家具や調度品は見繕ってきます。家主は?」
「すこし離れていますから、仕事のついでに寄りましょう。お世話になる妓楼には、あなたもご挨拶を。薬箱を持っていきましょう」
「はい、珠世様!そちらもお持ちします!」
愈史郎は薬箱を背負い、珠世と夜の街に出た。この辺りの人通りは少ない。

「そうだ。俺は病弱でいきますか?」
愈史郎は言った。稀に愈史郎が病弱ということにして、家に残る事もある。
いい年した青年が、日中ずっと働きもせず家にいるのは不自然だからだ。それに、そうしておけば珠世が夜に出歩く理由になる。昼間は看病があるからと。
日の光に弱い病は実際にあるらしいが、鬼につながるので使った事は無い。だいたいが労咳だ。
「いいえ、今回はやめましょう。貴方にも手伝いをしてもらいます」
「はい、たま――、あっ、お母様」
愈史郎は言い直した。
すると珠世が微笑んだ。
愈史郎は天にも昇る気持ちになった。
珠世は孤児だった愈史郎を拾い、鬼にした。愈史郎は病にかかっていて先はなかった。
……それがずいぶん前の事に思える……。
これまで住処を四度変わった。五年いたところもあれば、半年いなかった所もある。

珠世はここにしばらく留まるつもりらしい。廓街だから丁度良いのだ。
「早くに仕事が見つかり、ほっとしました」
珠世が言った。
「そうですね。ですが珠世様の技術を以てすれば容易いことです」

実は珠世は血鬼術を使って人を説得できる。おかげで職探しに困ることはほとんど無い。
……まあ血鬼術がなくても珠世ほどの腕の医者はそうそういないのだが。

「よしなさい、愈史郎。それと、私は」
「あっ、お母様……。申し訳ありません、お母様」
「もう間違えてはいけませんよ」
「はい!お母様!!」
門をくぐり、人で賑わう通りに出た。

「凄い物ですね」
愈史郎は色街を初めて見た。夜だというのに明るい。
「ええ。吉原ほどではないようですが」
珠世は慣れた様子で歩いて行った。

■ ■ ■

愈史郎がこの街に住み着き、つつがなく、半年が過ぎた。
今では重篤な患者のない限り、愈史郎が仕事を変わっていた。

この街は、隠れるには都合がいいのだが、やはり品が悪い。
できれば早く移動したいのだが……。

この街に来る前、珠世と愈史郎はある田舎街に住んでいて、愈史郎の術で屋敷を隠してしまっていた。
それで十分だったのだが、その街の近くに別の鬼がえさ場を作った。
珠世と愈史郎はそれと分からぬように鬼狩りに情報を流し、屋敷を捨てた。

愈史郎と珠世は鬼だが、人を喰わない。その為『鬼狩り』に出会う確率は低い。
鬼の総領もいるが、珠世はさほど心配していないらしい。
曰く、小物で臆病で、支配を抜けた珠世に追っ手を差し向ける程の器もないのだとか。

「……?」
愈史郎は歩みを止めた。

呻き声が聞こえる。

……たすけて、と言っている。
大方、どこぞの女が襲われているのだろう――と思ったが、それを見過ごせば珠世に叱られる。
愈史郎は声の方へ進んだ。良くあることだし、見つからなければあきらめよう。
声の方に近づくと、女性では無いと分かった。

子供だ。

周囲に人の姿はない。子供は傷だらけで呻いている。
ざっと状態を見ると、腕の骨が折れていて……打撲もある。
放置してもいいが……。愈史郎は舌打ちしてそれを拾った。

「帰りました。お母様、すみません」
愈史郎はすっかり馴染んだ呼び方で呼んだ。
珠世が二階から降りてきた。

「おかえりなさ――あら?」
「そこで拾いました。手当てしてすぐ捨てましょう」
愈史郎は言った。拾ってしまったのだから仕方無い。
「そんな事を言わないで、まあ、酷い怪我。二階へ」

子供を灯りの下で見ると、やはりどう見ても親無しだった。
そもそもこんな夜更けに街にいるのだ。それしかない。
「汚い子供だな」
「よしなさい。いいから手当を、水を下さい」
「はい」
愈史郎は水を汲み、子供の着物を剥いで体を調べた。
脱がした着物は泥沼に落ちたかと言う程の汚れ具合で、血と泥で汚れていた。着物というよりもはやボロ切れだ。下着の類いは身につけていないかったが、この街でよくある怪我はなかった。
左腕が折れていて、右肩は外れていた。顔、腹、肩、腕、足、尻、と体中に殴られた跡があった。顔は腫れ上がり、元の形がよく分からない。
大方、酔っ払いの憂さ晴らしにあったのだろう。

「熱がある」
運んでいるときに分かったが、これは多分……。
「肺を病んでいるようですね」
珠世が言った。呼吸の音が怪しい。子供が唸りながらむせ込む。
「良く生きてるなこいつ」
愈史郎は言った。自分も孤児だったが、ここまで酷くはなかった。

年は幾つくらいだろうか。孤児は年より小さいのが普通だから、四つか、五つ、その辺りか?
その辺りになれば盗みやら物乞いやらで食うことくらいは覚えるはずだが。
どんくさそうだ、と言いたかったが、痩せすぎていて、とても言えなかった。
おそらく病のせいもあるのだろう。髪はしらみが沸いていたし、臭いし、どうしようもない。

「珠世様、こいつ……どうします?ハァ、拾うんじゃなかった」
珠世の側で薬研で薬を調合しながら、愈史郎は後悔していた。こんな病原菌、拾わなければ良かった。これはしばらく治らない。
「そんな事を言わないで。容態が安定するまでは面倒を見て……後は廓に……いえ。奉公先を探しましょう」
「っ、申し訳ありません、珠世様……」
愈史郎は落ち込んだ。珠世は微笑んだ。
「いいんですよ、愈史郎」
「……はい」

子供は結局、生死の境を彷徨って、三日目の晩に目を覚ました。
子供はなぜ自分がここにいるのか理解出来ないようだった。顔も殴られ、腫れてみすぼらしい。ひとまず水を与えた。

看病し、話せるまで二日かかった。
「おいしゃさ゛ま?」
かすれきった汚い声だった。
「そうだ。今は仕事をなさっているが、……俺の母は腕の良い医者だ。せいぜい感謝しろ」
珠世が仕事で留守だったので、愈史郎が相手をした。愈史郎は気が立っていた。
「っ……ごめん゛なさい゛、おかね、ない゛よ……」
「そんな事は見れば分かる。いいか、お母様は素晴らしいお方だ。孤児相手に金を取ったりはしない。お母様の慈悲に感謝しろ。あとお前は臭い!熱が下がったら、一刻も早く髪を洗うぞ。臭い」

「愈史郎、戻りました」「お母様!!」
珠世の声が聞こえて、愈史郎は出迎えた。

■ ■ ■

一月ほどで、主立った怪我が癒え、顔の腫れも引いた。
まだ折れた骨は繋がっていないから、添え木が必要だが、まともな物を食べさせた結果、健康状態は格段に良くなった。病が問題だったのだろう。
労咳かと思ったが、肺炎を繰り返していただけのようだった。
繰り返し、膿や血を吐くまでになっていたので、愈史郎が拾わなければとてもこの冬は越せなかっただろう。

子供は大人しく昼夜逆転の生活を受け入れた。ここでは珍しい事ではないから当然だった。
受け入れたと言っても、朝起きて夜寝ている。食事の時だけ起き出す。
疲れているのか、とにかくよく眠った。

さらに一ヶ月ほど後。

「ねえ、ぼくはこれからどうなるの?腕が治ったらどうするの?」
腕の骨はほどんど繋がった。思ったより早いが、子供の骨だから治りがいいのだろう。
子供はいつも何かに怯えていた。少しの事で直ぐ泣いた。今も目に涙をためている。
「だから、腕が癒えたら、お母様の知り合いの家に奉公に上がらせる。俺達との付き合いはそこまでだ」
「やだよ、珠世さんと愈史郎さんといっしょにいたいよ」
子供が泣いた。声はすっかりましになった。
「俺達は駄目だ」
愈史郎は言った。珠世と愈史郎は鬼だ。鬼といてはいけない。だから名前も付けない。

「だって、珠世さんは良いって言ったのに……」
愈史郎はぎくりとした。
それは昨日の会話だ。珠世と愈史郎は、子供二階で寝かせて、一階で話していた。
子供はぐっすり寝ていたし、降りて来たら気が付いた。それに愈史郎は見張りの術を使っていたから、変化があれば分かったはずだ。起きた素振りはない。
狸寝入りだったのだろうか?子供の耳で聞こえる距離ではないはずだが。

「起きていたのか?」
「?」
子供は首を傾げた。
「……確かに、そういう話もあった。だが、やはりお母様にも、お前を養う余裕はない。タダで手当してもらえて、奉公先まで世話してやるといっているんだ。感謝しろ」

珠世は言ったのだ。
昼、動けないなら、誰か人間の協力があれば……と。

孤児は条件に合致しているし、悪くは無かったのだが。愈史郎は反対した。
珠世と愈史郎が鬼と分かったら、騒ぎ立ててしまうかも知れないし、いつか裏切るかも知れない。それに、成長したときに、戸籍も教育も受けていない男がいるのは不味い。まともな生まれならまだしも、孤児なんて物、どう育つか分からない。

――ここで別れるのが安全です。あの子供にとっても。
愈史郎の言葉に、珠世も納得した。

……近頃の珠世は少しさみしがっている風情がある。
子供を側に置いてしまったからだろうか。愈史郎に任せ、あまり接しないようにしているが、出て来る料理は心づくしだし……子供に情が湧いたように思える。
愈史郎は心底面白くないが、珠世は優しいので、仕方無い事だ。

「かんしゃ?……どうすればいいの?」
「何もしなくていい。お母様は見返りを求めたわけじゃない。なんなら、お前がまともな人間として生きていけば、それで十分だ」
愈史郎が言うと、子供はまたぼろっと涙をこぼした。目を擦って泣き出した。
「あ、あ……、……なんだっけ」
「?」

「あいさつ」
「挨拶?」
「かんしゃのあいさつ」
子供が言った。
「……」
愈史郎は子供を見た。この子供はどういう育ち方をしたんだ?と思った。
孤児だろうに、年の割に目端が利く。よく泣くが、愈史郎や珠世の言っている事、自分の状況を完全に理解している。
……聡い子供、というのは少し違う。不気味な子供というのが正しい。
食事の作法や風呂の入り方も、あまりに酷かったので教えたら、あっと言う間に覚えた。箸の使い方は握るだけだが、それは子供だから不器用なだけだ。本当に気味が悪い。
良く泣くが駄々をこねることもない。静か過ぎる。

「ありがとうございます珠世様。だ。分かったか」
愈史郎は教えた。

「ありがとうございます、たまよさま?」
「俺の母は珠世様という。礼を言うときは、相手の名前を言え」
「ありがとうございます、珠世様」
子供が初めて微笑んだ。愈史郎に向かって言った。
「だから、俺は愈史郎だ。珠世様に感謝しろ」
「ありがうと……ございす、愈史郎」
子供は言い間違えた。舌が上手く回らないのだろう。
「違う!ありがとうございます、だ。それと必ずさん付けしろ。愈史郎さんと言え!」
「ゆしろう、さん?」
子供はへらへらと笑った。

そうしていると、子供が通りの方を向いた。
子供は「たまよさまだ!」と笑顔で言って立ち上がった。
「?」
こういう事は何回かあった。もしかしたら……相当耳が良いのだろうか。
愈史郎はまさかと思った。

そうしているうちに珠世が戻ってきた。

「ぼく、こっちへ降りておいで」
二階に顔を出して、珠世がいった。珠世は子供を「ぼく」と呼んでいた。

「たまよさま!」
子供は起き上がって、階段を下りようとして踏み外した。
予想できた事だったので、愈史郎は首根っこを掴んだ。この子供は、まだ一人で階段を上り下りする事が出来ない。
「階段には気を付けろ。落ちたのを忘れたか」
「っ、わぁああああああぁああ!」
落ちた時を思い出したのか、子供が泣き出した。臆病というか、どんくさいというか。
こいつは一度泣くとかなり五月蠅い。便所を教えたときも、風呂に入れたときも大泣きした。
「うわぁああああん゛うぁああああん!」
「静かにしろ!母さんの前だぞ!」
愈史郎はぺし!と頭を叩いた。

「あらあら、泣かないの。ぼく、これを見てご覧」
珠世が言って風呂敷を床に置いた。藍色の着物だった。
「いつまでも浴衣じゃあ可愛そうだと思って……。これを着て、明日、奉公に上がりましょうね」
「明日ですか?」
思ったより早かった。もう痛みはないだろうし、殆ど治りかけだが、腕には添え木があって、包帯が巻かれている。
「ええ、ちょうどこの子を送って下さる方が見つかったので」
珠世が言った。

明日、という珠世の言葉の意味を理解出来たのか、子供は泣いた。
「ぁーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
泣き声ではない。子供特有の金切り声だ。
愈史郎は耳を塞ぎながら、確かにこんな美しい珠世と別れるのは辛いだろうな、と思った。

「厳しいお家ですけど、ちゃんとしつけて下さるそうだから、頑張って働くんですよ」
珠世が言った。

子供はそもそも奉公を知らなかったので、そのことも愈史郎と珠世で説明した。

曰く、生きるのには、食べるのには金が必要。
暖かい寝床で寝るのも金が必要。着る物だって、浴衣ひとつ、草履一つだって金が掛かる。金を稼ぐためには働かなければいけない。
奉公というのは、その家に住みながら、その家の為に働く事。
お前みたいに親のいない子供は、親のいる子供よりもっと働かなければいけない。
お前が昼に食べた、あのうどん一杯がこれだけの金で買える。だがこの金を稼ぐには、子供なら丸一日働かなければいけない。ちなみに、働かなければ、あっさり捨てられる。
大人と子供、できるやつとできないやつでは貰える金に違いがある。
珠世様は医者で、素晴らしい技術をお持ちだから、いい暮らしが出来る。
何の力も技術もないやつは、いい暮らしが出来ない。だから働け。
できれば知識や技術を身に付けろ。字を覚えて、本を読め。
分からない!?これが本だ!これが字だ!
いいか字、文字というのは、言葉を覚えておくために人が作った物だ!!

愈史郎はヤケになっていた。
子供相手に難しいだろうと思ったが、正直どうでもいい。

愈史郎も孤児でそうして生きていた、と言うと、子供が全く分かっていない顔で、「??働くって何?」と言ったので、愈史郎は、まずは人に言われた通りの事をやることだ。慣れて来たら、自分が何をできるか考える。余裕や暇があったら、足りないことはないかと聞く。
と言った。

慣れるって何?と子供が言うので、愈史郎は怒り出した。
すると珠世が苦笑し、慣れると言うのは、まちがいなく、早く、人よりいっぱい出来る様になることです。よっぽどの事が無ければ、仕事に慣れることはありませんから、とりあえず、言われたことをしっかりやるのが良いでしょう。と言った。

「……ぼくは働かないから捨てられるの?」
子供がそう言ったので、愈史郎は密かに舌を巻いた。
この子供はやはり賢い部類に入る。

珠世は子供を憂いのある表情で見ていた。
愈史郎は『珠世様は今日も美しい……!なんて美しいんだ珠世様は!』と思った。
「違いますよ。私達では、貴方を育てる事が出来ないだけです。――そうだ、草履の履き方を教えましょう」
話を逸らすために言ったのだろう。子供の興味もそちらに移った。
「俺がやります!」
愈史郎は珠世が子供に構うのが面白くなかったので、珠世の代わりに教えた。

「私達はついていけないけど、お迎えを頼んだから、今日は一緒に寝ましょう」
その夜、初めて子供を挟んで眠った。

「おい子供。いいか。明日、俺達は表には出ない。お前一人だけで出て行け」
愈史郎は言った。
「迎えの人が来てくれるからね。一人で下に降りて、草履を履いて出て行くのよ。その人や、奉公先の家の人の事を良く聞いて、よく働くのよ」

――翌朝、珠世が頼んだ男が来て、子供は怯えた。

「おい。子供。珠世様に礼を言え」
愈史郎は言った。

「……うぐ、うぁああああ!!やだやだやだ!!行きたくない!!」
子供は二階で、珠世にすがって泣き出した。
「こら、珠世様を困らせるな!!」
愈史郎は引きはがした。
「ずっと一緒に居る!!ゆしろうさんとたまよさまとずっといっしょにいる!!おいしいごはんとあったかいふとんでねる!ゆしろうさんとたまよさんとけっこんする!!」

「おーい、そろそろ行くぞ、坊主。その方を困らせるな」
迎えの男がおそらく、一階の土間に入って来て言った。呆れているようだ。
「やだぁああ!!」
「頼む、自分で出て行ってくれ」
愈史郎は言った。

……これでも本当に精一杯やっているのだ。
男がもし上がってきたら、この部屋の異様さに気が付くだろう。
まったく日の差さない家。
男はおそらく、二階は明るい物と思っている。

愈史郎は子供の肩を叩いた。
子供の耳元で、声を潜めて言った。
「お前がいると、俺達が困るんだ。――もう分かるだろう、頼む。俺達は昼間、外に出られない――。早く!行け!」
「……」

「ぼく、元気で……」
珠世が言った。珠世は正座し背を向けている。暗いので子供には見えないだろう。
「……たまよさま……」

「階段で転ぶなよ、行け。一人で大丈夫だと言え」
愈史郎は声を潜めて言った。

「うん……」
子供は泣きながら、とぼとぼと階段を降りた。とんとんとん、とて、と小さな音がする。

「坊主、もういいのか?見送りは?」
「ひとりで、だいじょうぶ」
子供が出て行く。

「たまよさま、ありがとうございました。ゆしろうさん、ありがとうございました」
あっさりと、戸が閉まる音がした。

愈史郎はほっとしたが、珠世は、肩を震わせて泣いていた。

■ ■ ■

「坊主、名前は?」
男が尋ねて来た。隣を歩く子供を見た。
やっと大泣きを終えた子供は、ひっく、ひっくとすすり泣いている。

「ない」
「それじゃ舐められる。着くまでに三日はかかるから、考えよう」
「……考える?」
「ああ、名前を考えるんだ。思いつかなかったら、幾つか俺が考たのがあるから。この中から選べ。まあ字は読めないだろうが。意味は教えてやるから」

これは珠世に依頼されていたことだった。名を与えると親と思うだろうから、言わずに名付けて欲しいと。
男は女医の配慮に感心していた。確かに捨て子に碌な名前は付かない。拾丸、捨丸、一郎、良くても、太郎か三郎だ。下手すれば名字もつかない。

紙は三枚。
三つ候補があった。

「ほほう……」
男は唸った。どれも捨て子にはもったい無いくらいの名前だ。
読み仮名まで振ってある。

橘 善逸   たちばなぜんいつ
我妻良慈  あがつまりょうじ
我妻善逸  あがつまぜんいつ

男はははぁ、と思った。これはもしかしたら、どちらかがあの親子の名字かもしれない。
あるいは旧姓など。探せるように……という事だろうか。
男は順に読み上げた。

「そうだな。この中なら、これはどうだ。あがつま、ぜんいつ。これは我ながら、良い名前だぞ。名字との兼ね合いも良いし、滅多に無いくらいだ。どうだ?坊主、これにしないか」
姓と名、我妻、と善逸が二回出ているから、おそらくこの名前にしたいのだろう。

「あがつま、ぜんいつ……どんな字?」
「これだ」
男は手紙を見せた。
手紙は子供には渡すな、主人に渡せと言われている。
あの親子はすこし奇妙だ。書生と寡婦だという噂もある。
男は愈史郎という青年も見知っていたが……あの青年が医者を見る目は確かに、母親へのそれではない。
親子にしては年も近い。訳ありか、やはり駆け落ちだろうと思っていた。
詮索しても良い事は無いので関わる気はない。旅費と、駄賃には十分な金を貰っている。むしろ羽振りが良すぎるくらいだ。

子供は目を丸くした。
「これが名前?なにこれ?へんなの」
「変じゃないぞ。我妻が名字、善逸が名前。これでよかったら、今からお前は善逸だ。俺もお前を善逸と呼ぶし、皆もお前をそう呼ぶ。こんな良い名前が、今日からお前の物になるんだぞ」
「ぜんいつ……」
「気に入らないか?」
「いや、そんなことはない。でもへんな感じ」
「すぐに慣れるさ。善逸」
「善逸。我妻、善逸……、善逸、ぜんいつ、ぜんいつ?名前って太郎とか一郎とか愈史郎とか、なんとか郎じゃないの?あ、きよしもいたかな」
「そんな事は無い。名前は色々あるんだ。お前はこれにしとけ!俺が言うんだから間違い無い!」
「……なんとか郎がいいんだけど。皆とおなじがいい」
「いや、まあ、まて。それもいいが、善逸が良い。絶対にいい」
「なんで?」
子供は首を傾げた。
「いいか、まず、画数がいい。それに意味が良い。善を逸する。これは……すごく善人であるという事だ。いい人になれという意味の名前だ。我妻も珍しい良い名字だから、これにしろ!これなら間違い無い!」
男はあることないこと力説した。画数はよく分からないが、字面はいいから問題無いだろう。
実際に良い名前だと思った。
名は体を現すという。こんな良い名前を持てば、まあまず良い人間になれるだろう。
孤児らしいが、受け答えもしっかりしていて礼儀正しい子供のようだし。

「……わかった。じゃあ、それにする。うーんでも、あがつま、ぜんいつ……あがつまぜんいつ……?……分かった。それにする!我妻、善逸!その紙ちょうだい?」
「駄目だ、これは奉公先のご主人に渡す」
「ええ?」
「文字が書けるようになったら、自分で書くんだ。いいな、善逸」
男は言った。

■ ■ ■

「――って、その人に名前を付けて貰ったんだけど。立派すぎる名前のせいで大分苦労したな……」
善逸は、自分の名前の由来を炭治郎に語った。
孤児で名前もなく捨てられたが、初めての奉公先に行くときに、迎えに来た男が名前を考えてくれたと。そこだけ話した。

名前がないと舐められる、おかしな名前をつけられる。
確かにその通りだった。何度も感謝したが、この名前は、良い事ばかりでも無かった。

「俺、最初は分からなかったけど、かなり奇抜じゃんこれ。我妻なんて本当に見ない名字だし。善逸なんて、どうしてそうなった?って感じだし。普通思いつかないし。名前見ていいとこの子かもって期待されても、俺は全くなにも出来ないわけよ。孤児だったから。箸一つまともに持てないわけで。まあでも、名前がないと舐められる、おかしな名前をつけられるってのは本当だよ。珍汰(ちんた)って呼ばれてた子とか。さすがにそれはどうなの……善逸でよかったなって思ったし」

「なるほど。その男性はとても物知りだったんだな」
炭治郎が言った。
「うん。本当に感謝してる」
善逸は目を閉じた。
話さなかった部分は沢山ある。もしかしたら、あの女医者が名前を付けてくれたのではないかとか。初めての奉公先で起きた悲しい出来事とか。
そもそも女医の事もざっくりとしか語っていない。

孤児だった頃に肺炎にかかり体調を崩して、そこを親切な医者に助けて貰って、その人のつてで奉公に行く事になったと。
――それだけだ。医者の性別も言っていない。

あのまま牛込にいたら、間違い無く死んでいただろう。
女なら拾われたかもしれないが、男を拾う物好きはいない。陰間にされるのも嫌だったが、そんな美形でもないし。そもそも孤児なんて見向きもされない……。

善逸は怪我の程度を覚えていなかったが、碌な生き方も知らず……運良く生き延びても良くて、ごろつきになっていたか。一時、牛込を離れられて本当に良かった。
そもそも万が一生き延びたなんてあり得ない。息をするのも苦しい位で、喉が切れ、しょっちゅう吐血していた。通る人の足にすがって物乞いしていたくらいだ。

「ところで、炭治郎何してる?手紙?」
善逸と炭治郎は、那田蜘蛛山での任務を終えて蝶屋敷で療養していた。
善逸は手足が縮んでしまったので炭治郎のベッドに苦心して登り、炭治郎の左側に身を寄せ、書きかけの手紙が置かれた机にもぞもぞとしがみついた。
炭治郎は善逸が落ちないように、少し右にずれて座った。

「ああ、禰豆子の事が落ち着いたから、珠世さんに手紙を出そうと思って」
「ふうん?誰それ?」
「禰豆子を助けてくれた女性で、禰豆子の事を調べてくれているんだ」
「へぇ。そんな人がいるんだ。何サンだって?」
善逸は感心した。炭治郎は顔が広いなと。同時になにか引っかかった。しかし気のせいだろうと思って――。

「珠世さんだ。こういう、少し変わった字を書く」
炭治郎は端紙に『珠世』と書いて見せた。
「……?たまよ……?」
善逸は眉をひそめた。どこかで聞いた名前な気がする。
どこだったか。思い出せない。
「どうした?」
「いや、なんでもない。その人、美人?」
女性の美醜にこだわるのは失礼だが、何となく聞いていた。
尋ねられて、炭治郎は目を輝かせた。
「ああ。美人だ。滅多に無いほどだと思う。二十歳代半ば?くらいだろうか」
「へえ。どうやって出会ったの?何してる人?そんな知り合いがいたなんて。炭治郎もスミに置けねえな」
善逸は美人と聞いて、話の流れとして聞いただけだった。

炭治郎は左右を見て、「これは鬼殺隊に知られると不味いから、内緒にしてくれ。できるか?」と言った。善逸は少し気圧されながら頷いた。

「浅草で、鬼無辻に出会った事は言ったよな。その時、鬼無辻は通りすがった人を鬼したんだが、そこを珠世さんが助けてくれた。その後、珠世さんは鬼にされた男性と女性をかくまってくれたんだ。今も『愈史郎』という青年と一緒に、静かに暮らしている。この二人は実は鬼なんだが人を食べていないんだ――輸血の血を、少量飲んでいると言っていた」
「ゆ?」
ゆしろ……?
そこだけ大きく聞こえた。
炭治郎は続けている。
「――その人達が、禰――」

「まって、待って?」
善逸は頭を押さえた。
いま、何て言った?
「今、何て言った?ゆしろ?――ちょっと待って、その人、どういう人?詳しく教えて!?」
善逸は炭治郎の左肩を掴んで揺すった。

炭治郎は面食らいながら、二人の特徴を詳しく話した。
善逸が間違い無いと思えたのは、医術の心得がある、屋敷が壊れたから余所へ移った、と言う所だった。
「……」
おそらく間違い無いと思ったが何も言えず、善逸は袖で口を押さえていた。

「どうした?」
「いや……、もしかしたら、知り合いかも……。ゆしろうとたまよ、って言うんだろ?医者で、なあ、俺の事、書いて送ってくれないか?牛込で孤児を助けませんでしたかって……!」
善逸は炭治郎を揺すった。

〈おわり〉